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そういえば、web日記を始める動機にはいつも「自分は未だ何者でもない」という感覚があるなあ。これは劣等感ともまた違う何かなのだが。
# by exit_number07 | 2010-08-05 11:18 | 終わらないケーキ
うーむ
夏の夜中におなかが痛い.
# by exit_number07 | 2010-08-05 00:48 | 日々
9/22
引用

コーリン・ロウは有名な『透明性・虚と実』において、透明性を、実の(リテラルな)透明性と虚の(フェノメナルな)透明性に分けている。実の透明性とは、そのような状態をガラスなどの実際に透明な物質を用いてダブル・イメージのように実現させることであり、虚の透明性は、物理的な透明性とは別の、まさに「次元の異なる二つ以上のものか同時に知覚」されるような独自の構造が実現された時にだけ、あらわれるもののことだ。それを強引に解釈し直すとすれば、実の透明性とは、形態(図)の重ね合わせによって得られる透明性であって、それは図の複数性(いわば「多義性」)をもたらすのだが、虚の透明性は、図を浮かび上がらせることを可能にする地、ある意味を発生させるための場、コンテクストなど、表現の基底となるものの複数性によって得られる(だからここであらわれるのは「決定不可能性」だし、複数に分裂した基底の絶えざる入れ替わり、あるいは闘争でもある)、と言えるだろう。さらに強引な解釈をつづければ、虚の透明性とは、不透明による透明性のようなもので、それは決して全体を一望のもとに眺めることが出来ない、いわば複雑な迷路に迷い込んだような状態で、一つ角を曲がる度に風景が一変してしまい、その度に今まで見てきたもの全てを解釈し直さなければならなくなる、という状態に似ている。例えば、セザンヌの絵画においては、静止した画面を、自らも静止したままその正面から眺めているだけなのにも関わらず、ちょっとした視線の動きや、注目している範囲の移動だけで、事物や色彩が置かれている秩序そのものが、つまり基底的な空間そのものが、ググッと動いてゆくのを感じることができるのだ。この、基底的なものが動いてしまう、動きながらいつの間にか別の地平へと変わってしまう、つまり複数の基底が互いに排除しあいながら共存している、という感覚が理解できない人には、セザンヌやマティスに代表されるような近代絵画の様式というものが、たんに視覚的な様式の変化、つまり交換可能な新たな意匠への移り変わりの一つのようなものにしか見えないだろう。

セザンヌと村上隆を同時に観ること/古谷利裕

# by exit_number07 | 2009-09-22 17:03 | 読む男
実は
もうそんなに暑くなくなっている。日中の晴れ方、光の量はものすごいのだが、朝と夜の空気のなかにはすでに秋の予感のようなものがある。東京は蝉の夜鳴きがすごかったのだが、いつの間にかそれも消えて、商店街の風鈴の音が聞こえる。
# by exit_number07 | 2009-08-18 22:49 | 日々
8/18
「打ち明けて語りて何か損をせしごとく思ひて友とわかれぬ」という石川啄木の歌があって、お盆休みに色々な人と飲む機会も多かったのでこの時期はなんだか気分自体がそんなかんじになる。喫茶店でカレーを食べていたら隣のテーブルがたぶん建築科の学生たちの集まりで、言葉としての建築批評とモノとしての作品をつくっていくことのバランスをいかにしてとるか、みたいな生硬な話をしていて(藤村龍至の存在は彼らくらいの学生にも大きなものであるらしい)微笑ましくもあり、うらやましくもあり、といった気分になった。抽象的な夢を語っても笑わずに聞いてくれる同世代の友人がいるというのは、たとえそのあとで「損をせし」気分になったとしてもいいものだな、と思い直した。
# by exit_number07 | 2009-08-18 15:30 | 日々